サハラマラソン245キロへ挑戦(2008年3月28から4月7日完走!)
サハラ砂漠を7日間で245キロを走り、しかも7日分の食料と背袋はすべて背負いそれで生活をおこなうサバイバルレースである世界一過酷なサハラマラソンの挑戦記です。その後2009年チリ・アタカマ砂漠マラソン(7日間250キロ)、2010年中国・ゴビ砂漠マラソン(7日間250キロ)を完走し、2010年11月の南極マラソン250キロを完走しました!

サハラマラソンへご支援いただき、誠にありがとうございました!
文房具、Tシャツも多数頂き、サハラの村の子どもたちに渡すことができました☆

2009年世界で最も乾燥したチリ・アタカマ砂漠マラソン250キロ完走。
2010年に中国・ゴビ砂漠マラソン250キロ完走。
2010年に極寒の南極マラソン250キロを完走しました。
この経験からどんなに長い距離でも走れるテクニックを
教本「驚異のマラソン上達法」(ここをクリック)にまとめました。


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サハラとの出会い
 日本の国土が10個近く入ってしまう世界最大の砂漠「サハラ」。

 サラサラの砂にきれいな風紋が描かれ、砂丘群が連なっている、といったイメージが強いが、実際は砂ばかりの砂漠というのは多くない。
 むしろ岩漠や土漠ばかりで、その由来となったサーラ(荒れ果てた土地を意味するアラビア語)という言葉そのものだ。したがって、サハラは「サハラデザート」とは言わない。

 サハラの70%は礫砂漠で、残りが砂砂漠と山岳岩石砂漠。
 サハラ南縁部は、毎年約6万平方キロメートルのスピードで面積が増えている。

 冬から春へと季節が変わる3月から4月にかけて、砂漠の温度がどんどん上昇する。その温度差による砂嵐が内陸部では吹き荒れる。

 砂漠地方では、黒いベールで頭をすっぽり包んだ女性や男性を見ることがある。このベールは薄い紗でできている。
 空気が大変乾燥しているせいで、鼻腔内にトラブルが起こる。ベールは息の湿度を保ち、空気調整してくれる働きをする。またベールを着けると魂を守るともいわれる。


 学生時代から旅が好きで、社会人になってからも有給休暇を取ってはバックパックを担いで世界を旅するのが趣味だった。

そんな俺が走ることになったのはいまから8年前。
大学の友人にテニスを誘われ、テニスコートにいくと彼の先輩がも来ていて、第一声で

「河口湖マラソン、走らない?」

と誘ってきた。
42・195キロのマラソンなんてブラウン管の中の世界と思っていたが、ここで思わず

「はい。」

と言ってしまった。

元来、運動をするのは好きだったが、なぜマラソンなのか。
マラソンっておじさんのスポーツなのでは??

返事してしまったし、せっかくだからやってみるか。
でも、フルマラソンってどうやるの?

さっそく本屋に行き、マラソンの本を読み漁った。
そして誘ってくれた彼と彼の仲間と練習をしたりして、4時間2分で完走できた。

それ以来、フルマラソンに20回以上。
さらに、100キロを超えるウルトラマラソンや、トライアスロンなど、
過酷なレースに、次々と挑んできた。

このようにマラソン大会には毎年参加するようになり、走ることが生活の一部になっていた。
そんな生活であったが、仕事や会社に対して不安も高まっていた。
だれもが通る年齢に来たのかもしれない。
次第にビジネススキルやコミュニケーションスキルを磨こうと、いろんなセミナーに足を運ぶようになった。

そして2008年5月。
出会いはやってきた。
セミナーで一緒になったゆたちんから「サハラマラソンに一緒にでない?」
と誘われた。

彼は俺が100キロを走っていることを知っていた。
しかし彼はウルトラマラソンすら経験していなかった。
その決断に目を疑ったが、彼は本気だった。
オレは「いいね!」と言ったきりだった。

その後、彼との連絡は途切れていたが、8月になって再会し、再度「サハラマラソンに出ない?」
と誘われた。
彼はサハラマラソンに出場した人に話を伺いに行ったり、パンフレットや申込書の入手方法まで調べていた。
ここでオレはパンフレットや申込書を入手してもらうように彼にお願いした。

その後、彼とは9月下旬に200キロのウルトラマラソンに出場した。
一晩中走り続けるこの大会で、はじめて寝ないで朝まで走る経験をした。
雨が降り続き、レインコートを羽織って走ったが、寒くて身体が震えた。
また夜中は眠くて車道に出て行き、車にひかれそうになった。

ウルトラマラソンで夜中に走っているときに、車道によろめいて車に引かれて亡くなった友人がいるという人に、この話を聞かせてもらったばかりだったので、恐怖を覚えた。

そしてこの大会は164キロでリタイヤした。
このころから長い距離を走るのに飽き飽きしだしていた。

そんなとき、パンフレットが手元に届いた。主催者はフランスだった。
パンフレットを見るまでは、サハラマラソンの知識なと皆無だった。
写真を見ると、本当に砂漠の真ん中を走っているではないか。
世界一過酷なマラソンに参加している人たちの写真には辛くて苦しそうなものが多いと思っていたが、みんな楽しそうだった。いい顔をしていた。

彼らは変態か?
ここにはどんな世界があるのか?
怖いもの見たさが出てきた。

そして申し込みの時期が来た。記入言語はすべて英語だ。
ゆたちんと連絡を取り、申し込み書の書き方などを教えてもらい申し込みを先にした。
パンフレットの写真のところに行くなんて、想像もつかなかった。

申し込み締め切り時期になって、ゆたちんに連絡をすると、
なんと彼は申し込みをしておらず、聞けば今回は参加しないとのこと。
彼にとっても悩んだ末の決断に違いなかったが、オレは呆然とした。
お金を振り込んでいるが、キャンセルもできる。

迷った。。。。。。

オレがサハラマラソンに申し込んだことは、知る人ぞ知るニュースになっていた。
次第にまわりが盛り上がってきた。引くにひけなくなっていた。

1月にサハラマラソンの説明会が東京の事務所であった。
どきどきしながらひとりで参加すると日本からの参加者は10名と聞かされた。

そこでサハラマラソンのDVDが上映され、パンフレット以上にすごい世界があった。
サハラ砂漠という過酷な状況はひしひしと伝わってくるのだが、映像の中の参加者は楽しそうだった。

最後に、説明会に来ていた参加者の自己紹介を提案させてもらった。
ひとりひとりの話を聞いてみると、みんな百戦錬磨のランナーぞろいで、100キロマラソンで10時間を切っていたり、フルマラソンを100回以上走っていたりと、今までに見たこともない人たちがそこにはいた。

その中に、71歳という女性がいた。飯田さんだ。
彼女は会ったこのときから非常にバイタリティーにあふれ、目がきらきら輝いていた。
年齢を聞かなければ71歳には見えず、またたとえ71歳であってもおばあちゃんではなかった。
彼女はスポーツインストラクターの村上さんにジムで誘われて一緒に参加を決めたそうだ。
彼女とはそんな出会いだった。

またテレビスタッフが2名いた。聞けば、タレントの間寛平さんも参加するので、そのドキュメンタリー番組を撮るとのこと。面白いメンバーが集まったものだ。

最後に、2年連続参加された井上さんという方が紹介され、町田にあるスポーツショップで働いていることを知らされた。


説明会の翌日、アポイントも取らずに、そのショップに行ってみると、線が細い店員さんが井上さんだった。
彼は仕事中だったが、興奮することもなくまた煽り立てることもなく言葉を選びながらサハラマラソンについて語ってくれた。

彼もまたその魅力にはまった一人だった。
彼はその後、東京から鹿児島まで走りながら、施設の子どもたちを訪問し、たくさんの子どもたちに夢や希望を与え、サハラ砂漠の砂を配り歩いていた。

どうしてサハラマラソンはこんなに人を惹き付けるのだろうか。
ますますサハラマラソンに興味が沸いてきた。
そして井上さんからシューズやウェアなどのアドバイスをいただくことができた。
その後、ショップに足を運んでみたものの、彼と再会することはできなかった。
しかし、頂いたアドバイスは脳裏に焼きついて離れることはなく、装備品やウェアなどはこのときのアドバイスがなければめちゃくちゃになっていただろう。

荷物を背負っての通勤ランを平日にし、週末は山に行ってトレイルランニングをしたり、江ノ島まで行って砂の上を走る練習を繰り返した。

サハラマラソンに参加することとは話題性があるらしく、新聞社から取材されたり、栃木県知事に表敬訪問もした。

そんな出発一ヶ月を切ったとき、仕事の相談で大学の恩師に電話したところ、思わぬ告白を受けた。

「もう、死ぬかもしれない。。。。」

恩師には大学時代、実に9年間もお世話になった。
ゼミ生が先生宅にお呼ばれする卒業記念のパーティーでは、泥酔してしまい記憶がなくなったしまった。そんな俺を介抱し、着替えをして頂き、そして泊めていただいたのだ。

仕事中にもかかわらず、電話口で

「死なないでください!」

と叫んでしまった。
涙が出そうになった。

恩師が手術を受けるのは、サハラ出発前だ。
そんな恩師に俺ができることは、勇気を与えることしかない。

そう思って、手術前に病院へ行き、面会に伺った。
病状は大動脈瘤。難しい手術だということだ。
仕事のことやプライベートのこと、昔の話などが懐かしかった。
仕事の話をしたときには、人の紹介までしてくれた。

こんなときにも、俺の心配をしてくれるなんて。。。。

ありがたかった。
最後に、手術の成功を祈って握手をした。
握手には今までの力強さは感じられなかったが、遺言は言わないといった恩師の言葉に、必ず手術から生還するという想いを感じた。

「元気になれたよ。ありがとう」

とてもありがたい言葉だった。


恩師が生死をかけて挑戦するんだから、俺もサハラマラソンをしっかりと挑戦してこよう。

サハラマラソンに挑戦することに、理由がひとつ追加された。

読売新聞相模


出発まで残りわずかだが、練習への気合が変わった。

いつもロッキーのテーマが流れている感じだ。


たくさんの仲間から応援メッセージや寄せ書きが届いていた。

新聞に掲載されたこともあり、知らない方たちからも応援メッセージを頂いた。

うれしかった。
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